2020年5月12日、京都新城に遺構が見つかりました。
秀吉が関わった城にだけ使われていた表面に
金箔の紋が施された瓦や堀などが出土しています。
考古学的には大発見になりました。
そこで京都新城の発掘場所はどこか、
京都新城について、
豊臣秀吉は城をいくつ建てたのかなどを調べてきました。

今回の遺構は大発見だったようです!
京都新城の発掘場所はどこ?
京都新城の石垣などが出土した場所はどこでしょうか?
調べたところ、出土した場所は
京都御苑内の京都仙洞御所だそうです。
住所:〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑3
宮内庁のHPによると、
京都御所内にある京都仙洞御所の参観もできるようです。
※2020年5月13日現在、新型コロナウイルス感染拡大防止のために
京都御所通年公開並びに
京都仙洞御所・桂離宮及び修学院離宮の参観は休止されています。
京都仙洞御所が見れるのは嬉しいですね!
宮内庁のHPから京都仙洞御所の参観申し込みをすることができます。
ただし京都仙洞御所は18歳以上が参観でき、
乳幼児を含めて、18歳未満の同伴はできません。
申し込める人数も4名までになっています。
ここで京都御所までのアクセスを紹介します。
地下鉄烏丸線、今出川駅から徒歩5分
京都市バス、烏丸今出川のバス停から徒歩5分
となっています。
京都仙洞御所は京都御所の入り口から距離があるため、
行く際は時間にお気をつけてください。
京都新城について、役割は?
1595年に豊臣秀吉が豊臣秀次を高野山に追放したのち、
聚楽第を取り壊しました。
聚楽第を壊したことで、京都観所に参内するために
新たに豊臣家の京屋敷が必要になったため
京都新城を建設したと言われています。
東西400メートル、南北800メートルの大きさがあったそうです。
豊臣秀吉の死後は正室、高台院の屋敷になりました。
その後1624年に徳川幕府によって解体され、
後水尾上皇の仙洞御所になり現在に至ります。
よって京都新城は豊臣秀吉によって建てられた最後の城でした。
京都新城は後からつけられた名前で、
当時は太閤御所、太閤御屋敷、新城などと
呼ばれていたようです。
この京都新城については、文献資料がほとんどなく、
遺構も全く見つかっていない状態でした。
今回発見された遺構によって、
京都新城の実態や豊臣秀吉の晩年についての
調査が進むことを期待したいです。
続報を待ちましょう。
豊臣秀吉はいくつ城を建てた?
ところで豊臣秀吉はいったい
いくつお城を建てたと考えられているのでしょうか?
調べたところによると、諸説はありますが
豊臣秀吉は7個の城を築いていたようです。
1つ目は岐阜県にある墨俣一夜城です。
この城は豊臣秀吉が木下藤吉郎を名乗っていたときに
一夜で築いたと言われているお城です。
現在は歴史資料館があります。
2つ目は滋賀県にある長浜城です。
豊臣秀吉が初めて築城し、城持ち大名となったところです。
現在の天守は模擬天守になっています。
現在は長浜城歴史博物館があります。
3つ目は京都府の山崎城です。
豊臣秀吉が明智光秀を討ち取った後、
清須会議にて手に入れた土地に築城されたいます。
現在はハイキングコースがあり、山崎城跡まで
行けるようになっているそうです。
4つ目は大阪府にある大阪城です。
石山本願寺の会った場所に建てられたと言われています。
日本の3名城の一つにも数えられる場合があります。
5つ目は京都府の聚楽第です。
豊臣秀次も住んだと言われています。
現在遺構はほとんど残っていないそうです。
6つ目は京都府の伏見城です。
1598年伏見城内で豊臣秀吉は生涯を終えたと言われています。
当時、伏見城は何度か倒壊し再建されています。
7つ目が今回遺構が見つかった
京都新城です。
このようにみると、いかに豊臣秀吉の権力が
強大だったかが分かります。
興味がある方は回ってみるのがおすすめです。
まとめ
今回は京都新城について、豊臣秀吉についてまとめました。
京都新城の遺構の発見は考古学的には大発見になりました。
今後、今回の遺構からどのようなことが分かり、
豊臣秀吉の晩年や京都新城についての解析が進むことを祈ります。

これから色々と解明されてほしいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。